「経済倫理学のすすめ − 感情から勘定へ」 竹内靖雄 1989年 中公新書

 この本を読んでいなかったのは、私の不明。私は本にメモを書きながら読み、それをまとめる習慣があります。ですから「とても大切な本」は二冊買うことになります。1冊は使うため、1冊は読むだけのため。という訳でこの本、即!!!アマゾンで、もう一冊注文しました。大学の講義の参考図書としても活用させて頂きます。ありがとうございました !(^^)! 以下はこの本の要約と引用です。

 それにしても、自分の考え方とここまで一致する(勿論、違う部分もありますが)人物がいるとは驚きでした。


■ 希少性の制約と倫理問題

 あらゆる倫理問題は、「希少性」の制約がある状況から生じる問題に帰着する。ありとあらゆるものが無限に存在して無償で手に入り、無くならない。盗難も不公平もあり得ない。不老不死なら殺人も無い。残るのは美意識だけになる。

 デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミスが指摘したように、倫理問題は感情問題でもある。人々の嫉妬を抜きには考えられない。「不公平」という認識を支えているのは嫉妬である。贈賄罪が不正であることは間違いない。贈収賄事件は、庶民の感情を逆撫でする。その怒りは殺人に比ではない。

 我々は、倫理を感情ではなく、損得勘定の問題として扱う。人々の利益を大きくするような、不満を少なくするような、無難な答えを得なければならないからである。

 資源と寿命に限りがある以上、希少性という制約がある以上、各人が自由に利益を追求するならば「闘争(暴力や詐欺を窃盗を含む)」は不可避となる。そこで社会に共有された規則の下で競争が行われれば、そのゲーム(競争)の結果に任せればよい。

 競争の仕組み=市場機構が、働くようにしておけば、倫理問題も消去される。

■ 利他主義の限界

 大多数の人間は、自分のために利他主義になってくれない人間を嫌い、避難さえするほど利己主義である。

 万人が他人のために尽くそうとする社会は、「小さな親切」から「大きなお世話」まで、なんとも煩わしい社会になる。利己主義の原則で動く社会−そうでない社会は考えられない。

 人々の利害が一致せず、希少なものの分配の解決は、利己主義による競争である。

 動物の世界には、合理性から逸脱しているという意味で異常なものはない。

 「いかなる善を口実にしようと、自らの生活を自ら支えることから免れてはならない」キリスト教学者トマス・アクィナス。「衣食足りて礼節を知る」と同じ立場である。「自分を愛することができない者は他人を愛することもできない」デイビット・リースマン。

 アダム・スミス以前にバーナード・マンデヴィルは「私欲が悪徳だというなら、その悪徳の寄せ集めが全体の善、公益をもたらす」と主張した。

 市場で決まる価格を信号として需要と供給が調整される。各人の利己主義は無制限に実現されることはない。政府は市場の競争を監視し、競争を破壊するような反則を排除しなければならない。

 利己主義の克服という「できない相談」を捨て、倫理問題を競争(市場)に任せる、倫理問題を消去することができる。

■ 感情と勘定

 倫理問題は感情問題。人間の行動に対する「気持ち」の表現である。

 倫理問題は、結局は認識の問題ではなくて、行動の問題である。

 アダム・スミスの「道徳感情論」(1759年)に基づくと、1)人は自分が他人の立場に立ったと想像した時、つまり立場を交換した時、その行動の動機となった感情に「共感」できるならば、その行動を「是認」する。2)但し、この場合の「人」は利害関係の無い第三者でなければならない。3)人は想像上の「立場の交換」によって互いに観察者となる。「公平な観察者」がどう見るだろうかということが想像できるようになる。そして、「世間」の非難を受けるような行動は避けることを学ぶ。6)「分別のある観察者」の共感が得られるということは、その行動が社会で「是認」される「妥当性」を持つ行動だというころである。8)利己心が「妥当性」を超えて侵害を引き起こせば、強制力によって排除しなければならない。

 「共感」と「公平な観察者」によって成り立つアダム・スミスの世界には、普通の人間しかいない。それは「分別のある」人間ではあっても、特別なの人間ではない。

 何をなすべきかは、結局のところ、最も利益が大きい(不利益が小さい)行動を見つける、という原則に基づいて決めるほかはない。何が良いかは、金銭も感情も計算してみなければならない。感情問題を勘定問題に還元するのが、功利主義倫理学。損得勘定を拒否する倫理学に閉じこもる限り、何も判断できない。

■ 交換の正義

 規則の無い社会は無いが、様々な規則の根底にある原則が、「正義」の問題である。部族社会も秩序を保って存続することができた。「社会を政府無しに維持することは可能だが、正義無しに維持することは不可能」デイヴィッド・ヒューム。

 正義の原理は、「目には目を、歯には歯を」の応酬の原理。天秤が傾いているのは「不正」があることを意味する。但し、等価性のモデルが唯一なやり方ではない。

 補償方式では、損害が発生しなかった状態に復帰する形になる。損害が物財(金銭)ならば、このやり方は賢明である。殺人の場合でも、殺して「恨みを晴らす」より、慰謝料を取る方が合理的ではないか。

 応報の原理には否定できない重さがある。身内の人間を殺されたような場合、相手を殺す以外に正義の天秤は元には戻らない、という感情は理解できる。この報復は国家に委ねる。復讐と正義の回復を国家に代行してもらう。今日の常識では、人権派の人々は、応報主義ではなく教育刑を良しとする。犯罪者の人権を尊重することの方が大切であるというのでは、社会規範の基本が否定される。

 応報の原理は、「負の贈与」には「負の贈与」を以って報復する。死体が2つに増え、損害が2倍になる。それよりも、「負の贈与」を受けた人には「正の贈与」を与えて正負の贈与を相殺するやり方が推奨できる。問題は、加害者の補償能力である。

 小さな共同体では、互恵の原則で解決されるが、共同体を超えた経済関係になるとやっていけなくなる。より厳密な「ギブ・アンド・テイク」の原則が必要になる。これが「交換」の関係である。

 「交換」は、双方にとって「良いもの」の交換である。この「良いもの」が“goods”である。お互いに良いものを交換する。それが行われないよりも行われる方が、双方にとって利益になる。交換が行われることによって、系全体の状態が良くなる。この交換は、自由な選択を前提にして成り立つ関係である。

 合意し得る交換比率が存在することが、交換が行われる条件。ローマ法では、交換比率の正当性は、当事者間の問題となる。ユダヤ教の「タルムード」の考え方は、相場すなわち世間に通用している交換比率=「相場」があるならば、それに従うのが妥当だとしている。

 「価値」という客観量があって、その価値が等しいから交換されるのではない。合意が成立して交換比率が決まり、交換が成立した時に、その交換されるものが「等価」と見されるのである。「価値」という実体があるとする立場をとると、迷路に迷い込む。

 「等価性」を認めるような交換比率の決定。市場での多数の取引の結果決まった「相場」が「市場価格」となる。

 取引者は、市場で与えられた「価格」という情報に依存する。その状態が「安全競争」であると経済学者は定義している。誰も市場の価格を左右する力を持たない、という状態を反映している。独占や寡占が存在しない場合に市場で決まる価格は、「公正」な価格と見做される。「公正取引委員会」は、競争状態が維持されるように、監視する機関である。
*特許によって独占された価格。市場に依らない取引は、「不公正」な倫理を欠くものとならざるを得ない。

■ 分配の正義と嫉妬

 正義について検討するには、嫉妬の問題を避けて通るわけにはいかない正義の問題の裏側は嫉妬の問題である。

 人間は比較する動物。幸福、満足などは全て他人との比較を通して決まる。飢餓のような状態に置かれた場合を除き、絶対の貧乏が問題になることはない。

 不正を犯した場合、嫉妬は不正糾弾という大義名分を得て発動される。怒りは「正義感」に発していると信じるに足る理由がある。

 分配の原則は、1)一律平等に、2)貢献度や資格などに応じて、がある。一律平等は、参政権など、政治や経済に参加する権利・資格・機会などに関して適用される。機会の平等は、ゲームの出発点での条件を決めるだけであって、成果の分配は別である。一律平等を最終成果の分配に採用すると、各人の努力や能力の差を無意味にする。結果平等主義が採られるなら、人々は努力しないだろう。

 どのようにして貢献を評価するか。関係する組織が決める(勤務評定)。成果全体の分配は、市場を通じて行われている。

 「寡(すく)なきを患(わずら)えず、均(ひと)しからざるを患う」(孔子「論語」)。社会正義は、分配の正義の別名である。

 再分配は「ゼロサムゲーム」。取り分を削られた者は怒る。多数決原理を採用した再分配は、「多数の貧者による少数の富者の収奪」となる。国家が所得/富に比例して税金を取れば、投票権も納税額に比例して与えなければならない。税金の負担と受け取るサービスは、負担と権利は、比例しなければならない。負担能力に応じてというのは、「ノブレス・オブリージュ(身分の高いものは義務も責任も重い)」の原則が前提となっている。

 結果の平等は、競争を無意味にする。再分配による平等化は、社会が黙示し得ないような困窮に陥ることがない救済の範囲にとどめるべきである。

■ 競争とゲーム

 日本人は「競争」という言葉を嫌う。

 どの社会も「弱者」を救済する制度を用意している。

 競争の手段に制限を課する規則が必要である。商法その他の法律は、このルールを規定している。トラブルを引き起こせば、裁判によって処理される。

 「規則の下での競争」を「ゲーム」と呼ぶことにする。どちらも得をする交換のゲームは、「交換の正義」が成立する。

 「社会公正」の「公正」には、また別の意味が持ち込まれている。ゲームの結果が気にくわないというのは、「交換の正義」には関係のない、「分配の正義」の問題に帰属する。

 ゲームの結果を決めるのは、1)当事者の能力、2)努力、3)運。日本人は生まれながらの能力の差を認めたがらない。「努力至上主義」は過激な競争を生む。欧米人は、能力に応じた道を選び、無茶な努力と競争を回避する。

 マルクスは、初期条件の不平等を無くすには、財産の私有を廃止する以外にないと主張した。そのためには、ゲームの結果を否定して再分配を強行する必要がある。つまりゲームそのものを否定する。

 各人の能力や家柄などを平等化するのは不可能である。実現可能な平等化は、参加資格を限定しないこと、「機会均等」を保証することしかない。初期条件に恵まれない者は、努力によって成功を勝ち取る。そこに競争社会の活力と進歩の源泉がある。

■ 自由をめぐる問題

 自由には二つの意味がある。1)束縛や拘束を受けない状態。2)何かをする自由。大概のことは一定の条件付きでできるのである。その条件が問題になる。自由と可能を同一視するわけにはいかない。それをする能力があるかどうか、実現を不可能にする事情があるかどうか、といたことはまたその先の問題である。「〜することが不可能な状態」をつくっておいて「〜する自由を」を認めるのは欺瞞である。どんな国にでも、「形骸化された自由」なら沢山ある。

 ジョン・ステュアート・ミルは、他人を危害を加えない限り、何をするのも自由とする。他人に非利益を与えるとなると、問題はさらに微妙になる。自由主義の立場は、国家が「不正」を抑止するのは他人に危害や不利益を与える場合に限定すべきである。「公共の利益」は定義しにくい。個人の自由はいくらでも圧縮される。

 「不倫」は違法ではない。不道徳であるかどうかは、信念と感情の問題。決着がつく性質のものではない。道徳によってある行為を非難する人は、自分の抱く信念体系を他人に強制したがっている。「余計なお節介」「他人の自由の侵害」となる。「あなたのためを思えばこそ」の思い上がりは独善の罪よりも重い。

 ポルノの禁圧を唱える人は、自分がポルノを忌避すればよいのである。人は他人を軽蔑したり、嗤(わら)ったりする自由がある。これを行使するのに遠慮はいらない。

 明白に人々の利益に反する行為を禁止する規則は必要であるが、そうでない限りは規制は無い方がよい。

 他人が間違ったことをしていても、自分が直接被害を受けない限り放置し、不介入の態度をとる、というのが現在の社会では原則となっているようである。今日の大勢は、倫理低圧社会の気楽さを選んでいる。倫理低圧社会は、暴力による威圧に対しては弱い。

 今日、最も高い内部圧力を持っているのは企業である。特殊な宗教団体や学校もそうである。

 中国の「易姓革命」の思想は、悪性を続ければ天子が「革(あらた)まって」失脚し、新たな天子が登場する、と王朝の交代を説明する。孟子は、人民が悪逆の支配者を追放する「革命」を肯定する。古来我が国では、孟子の思想は「危険思想」としてきた。

 革命家が暴力で権力を奪取して軍力を独占し、新秩序を樹立する。大量虐殺と財産没収などが行われる。フランス革命・ロシア革命・中国革命・ベトナム革命。米国独立や明治維新を例外とし、体制を変えたことの利益が、支払った膨大な非利益を上回った例は殆ど無い。「悪政」を止めさせることが、「革命」に結びつく理由は無い。

■ 金儲けの経済倫理学

 金儲けを批判する人々の多くは金儲けに縁のない人か、金儲けに失敗した人である。世の中に富豪や成金は少ない。金持ちに反感を抱く人が多くなるのは自然の成り行きというものである。

 金儲けを戒められる悪と考えられている。古代では例外的に中国の司馬遷が金儲けと自由な経済活動を肯定しているにすぎない。アリストテレスから中世のスコラ哲学まで、思想家はは口を揃えて利子を否定し、高利貸しを非難した。

 商業活動は、輸送や保存をはじめ、様々なサービスを伴う。こうしたサービス↓危険負担に対して報酬があって当然である。

 ある商品について「公正価格」を議論することには意味が無い。「公正」と言えるのは、それが「競争市場で決まった相場」であり、誰もこの価格を与えられたものとして受け入れ、取引が行われる場合である。重要なのは、取引の売手も買手も、市場価格を「与えられたもの」として受け入れ、自分の都合の良い価格を設定(強制)しない、「プライス・テイカー」であることである。

 市場参加者は、価格を信号として行動するというよりも、許す限り情報を集め、将来を予想する。公正な競争を定義するには、この情報獲得と利用に関する規則を明確にしなければならない。

 地球の表面の一部を「占有」して自分の「縄張り」とし、他人の利用を排除することは、多くの動物が行っている。人間は土地を「所有」する。

 土地を誰もが「公平」に利用することはできない。できないことを要求して、それができないことを無策と非難する。感情としては理解できる。できないことは「諦める」のが賢明である。

■ 福祉国家の経済倫理学

 福祉国家の諸制度を不正に「活用する」人々が出てくるのは当然の結果である。福祉国家は、他人を助けるという性向を弱める。救済を必要とする人々を厳密に規定すべきである。

■ 民主主義の経済倫理学

 民主主義には金がかかる。貴族たちが「名誉ある公職」として議員を兼ねていた間は「職業政治家」は存在しなかった。金がかかるようになったのは、議員を選挙で選ぶようになってからだ。

 古代ギリシャのポリスの民主主義は「公費のかからない」ものだった。市民の中から抽選で選ばれる役人は無給。戦争の時は、市民は全員兵士となり、自費で武装して参戦する義務があった。

 投票の結果「多数の支持を得る」。支持の理由は問わないのが多数決原理である。下らない人間が選ばれる衆愚現象を伴う。結果が最善のものとはならないからといって、このやり方は失敗だと決めつけるのは適切ではない。

 投票制度は、票と何かの交換に似ている。有権者は何らかの期待と引き換えに投票する。具体の利益を与えてくれれることを「交換」に票を投じようとする。その結果、全体の利益を損なう方向に政策決定が歪められる。但し、予算の分捕り合戦では、誰もが予算の分捕りに成功するわけにはいかない。政治家が団結して予算総額を膨張させようとする。こうして財政支出が膨張し続ける。

 財政膨張を抑制し、利益誘導型分配ゲームの歪を抑えるためにも、均衡財政の原則が必要である。

 古代、神に物事を頼む際に捧げる品物を「マヒ」と言った。マヒを捧げる行為は「マヒナヒ」と呼ばれ、今日の「贈賄行為」を意味する。お賽銭をあげるという行為には、人間と神仏との間の「交換」への信頼のようなものが潜んでいる。

■ 生と死の経済倫理学

 万人に対していくらでも費用をかけて「最大限生命維持サービス」を提供することは不可能である。万人がいくらでも費用を負担してこのサービスを受けることも不可能である。

 成員の生命維持の打ち切りについて、決定を下すことは必要であり、不可避でもある。

 「自殺を犯罪と考えているのは、一神教の、すなわちユダヤ教系の信者たちだけである」ショーペンハウエル。ストア派のゼノンも自ら呼吸を止めて死んだという。

■ プロメテウスの倫理学

 プロメテウスはその名の通り「先に考える人」。ゼウスにより、岩山に繋がれた。ヘラクレスが大鷲を射落とした。

 「共有地の悲劇」。共有地は、「入会地」とは違う。「誰のものでもない土地」は、管理者がおらず、利用の規則が無い。共有地の破壊的な利己利用を防止するためには、管理者を定め、罰則を伴う利用の規則をつくる必要がある。

 人口増加の悲劇。一定の扶養能力しかない環境で人口が増え続ける。マルサスは「人口の原理(人口論)」で、環境扶養能力を超える人口の増加に対しては、1)飢餓、2)疫病、3)戦争、による人口調整機構が働くと主張した。今日でもこの構図は変わっていない。

■ 結論

 絶対の善や悪が存在すると考えるのは、特定の宗教の立場であって、本来無用のことである。崇拝と憎悪を生むだけだ。劣悪な人間には軽蔑を向けておくだけでよい。

 戦後の日本では、ノブレス・オブリージュを自覚せよと言っても無理な話である。

 他人に迷惑をかけないという最低限の原則が確立した後は、倫理問題は自学問題へと変質し、「カッコいい − 悪い」という美醜の問題になる。