ふと見かけた電車の中刷り広告。懐かし〜い!江古田です。日大芸術学部(日芸)には随分通いました。
私は早稲田出身ですが、恩師の元広告学会会長小林太三郎先生以外の講義には殆ど出席せず(だって早稲田の先生のレベルの低さは目も当てられないんだもの)、慶応や一橋や明治など首都圏の大学の、経済学・社会学・心理学を中心に当時一流の教授の講義を聴いてまわりました(当時は、他大学で単位を取得できる制度はなかったので単位は無し。だから早稲田の成績はボロボロでした)。という訳で、例えば、私の経済学は、慶応の辻村先生、一橋の都留先生、経済学の両雄の直伝です。
一流の教授の講義を渡り歩いた6年間(修士課程を含めて)でした。中でも辻村先生にはお世話になりました。試験監督の大学院の学生に話をつけて試験も受けさせてもらい、自宅に採点結果を郵送して頂きました。評点は「無し」。「既に研究者の水準に達している。評点すべき内容ではない。この方向で研究を進めて研究誌に投稿するよう勧められました。また、実際のミクロ経済の計量の方法論について丁寧なご指導を頂きました。
私が高校生の時に目指したのは、短期の売上を2倍に利益を3倍にするTV-CMプランナーにして、長期の売上を1.2倍に利益を3倍以上にするマーケッター、超広告人になることでした。広告賞を取る「クリエイター」になるなんて「げいじゅつか崩れ」の願望は持たず、あくまで「儲けてなんぼ」の商売人としての超一流の広告人を目指したのです。高校2年の時に「広告研究会」を立ち上げました(私が卒業したら消滅してしまったようです)。雑誌「宣伝会議」を購読し始めたのもこの頃からです。
大学の第一志望は日芸でした。当時、スーパースターだったCMディレクター杉山登志の出身校です。日芸と早稲田を両方合格した私は、広告制作者の登竜門と呼ばれた「詩とメルヘン」に受験勉強の傍ら、投稿し続けました。一度でも作品が掲載されてラ日芸に進学すると決めていたのです。
どちらに進学するかイヨイヨ期日が迫ったある日、私は詩とメルヘンの編集長やなせたかし先生(アンパンマンの作者としての方が有名ですネ)にお電話を差し上げました。「日芸に進学したいのですが、見込みはあるでしょうか」と「え!早稲田に合格してるの!?だったら広告学会会長の下で学びなさい」「才能はないってことですか?」「そうじゃないが、創作の道で食べていくにはキツイと思う」の一言で、日芸進学を断念。し方なく?小林先生(← 仲人までして貰ってし方なくは失礼ですが)の下に行きました。
それでも制作の道を諦めきれず、通信教育での評価が高かった武蔵野武術大学(武蔵美)の通信大学で絵画を学び始めました。私は、高校の頃、美術の先生に褒められるぐらいにはデッサンが描けたのですが、いわゆる「絵」は下手でした。モデルが無いと何も描けないです。忘れもしない大学一年の武蔵美のスクーリングの時です。ある先生に「卵を描いて来て下さい」と言われ、持っていくと「汚い絵だね〜」「でも不思議に透明感がある」「これは生卵だね」「君は目はあるが手が無い」「早稲田で会長に学んでいるんなら、制作者の気持ちのわかるマーケッターになってくれないか」と言われ、制作者の道を断念しました。
とは言え、くりえいたー願望は消えず。大学3年4年と、宣伝会議の「コピーライター養成講座」に通いました。そこでも評価はさっぱり。そんな訳で制作者希望が木っ端微塵に吹き飛ばされましたとさ。
とは言え、くりえいたー願望は消えず。大学3年4年と、宣伝会議の「コピーライター養成講座」に通いました。そこでも評価はさっぱり。そんな訳で制作者希望が木っ端微塵に吹き飛ばされましたとさ。
大学での倶楽部は勿論!伝統の「早稲田広告研究会(WAS)」です。そしてWAS以外の付き合い以外で酒を飲んだのは、広告人の溜まり場=ゴールデン街。ゴールデン街の野球チームにも入って下手くそな野球もしてました(もちろんベンチを温める補欠です)。杉山登志が「夢も無いのに夢売れぬ」の遺書を残して死んだという悲報を聞いたのもゴールデン街の「しの」でした(今ではゴールデン街の老舗ですが、開店当時から通った店です。ママは元広告人で、広告の仕事のお手伝いもWASの先輩に言われてやりました)。
高校生の時から広告人を目指した私が選ぶ大学は優秀な広告人を輩出している大学。目指す就職先は広告代理店。徹底していました。そんな私はWASの中でも煙たい存在でした。「何を学びに大学に入ったの?大学は遊びに来るところじゃない!学びたいことがないならやめてくれよ」と言ったりしたもんだから、滅茶苦茶に嫌がられていました。なので、「ひたすらこの道」の様々な行動はWASの仲間にも伏せ、物凄〜〜〜くエキセントリックな大学生活を送りました。
そんな中で、潜り込むのが最も難しかった授業が日芸の実習。例えばテレビ局よりも整っていると言われた設備を使う映像の実習は、学生証のチェックがある上、少人数なのでバレバレ。江古田駅から日芸に行く途中にある池(?)の辺の喫茶店で粘って友人(可愛いナイスバディな女子学生)を作って、潜り込んだものでした。それでも卒業制作の時期になると、どうやっても無理でしたが … 。
その女子大生をモデルにポスターを制作したことがあります。もちろん!彼女を裸にして(日芸の女の子は裸になることにあまり抵抗しません。「げいじゅつ」って色々な意味で様々なものを開いて見せてくれるんだな〜と感心しました)。その彼女は、バイト先の電通マンと恋仲になって … 私とはそれっきり。苦い思い出だな〜〜〜。これも大学一年生の夏休み。それ以降は、大学の近くだった、総理府統計局や国立国語研究所にも通い、「人間に関わることで、広告に無関係なものは無い」と幅広く勉学の道に邁進したのです。
私は高校生の時から、独りよがりで道を選びません。本当に自分は広告代理店のマーケッターとして一流になれるのか、確かめるために学生論文広告電通賞(学論)に応募。3年で3位、4年で1位。3年で3位以内に入って、電通に入らなかった「歴史上初めての男」になり、「その後、電通に入社しないで1位を取った唯一の人間」になったのです。日芸のあの美しい肢体の彼女を奪われた「恨み?」は深く、その後、電通を負かすことを無常の喜びとする広告人になりました。電通に入社したWASの先輩に聞いたら、競合プレテの相手が「荒木だったら癖玉に気をつけろ」と言われるまでになっていたそうです。
懐かしい! 江古田!!!機会があったら訪ねよう。そして、今取り組んでいる、新たなプロジェクトに向かって、初心に帰って、エネルギーをフルパワーに充填しなくcっちゃ。広告業界を驚かす結果を出すには「あの頃」の初心を取り戻さなくては (^^♪