言うまでもありませんが、デカルトの「吾思う(知る)故に、我あり在り」は、これ以上ないという出鱈目です。思う吾(自意識)と自己全体の我(自我)は、全く異なるものです。ですから、「吾思う故に、我あり在り」というのは、何も言っていないのと同じ。文字通りの無意味です。こんな言葉が(科学)哲学として通用しているなんて、西洋人は論理性が欠如した思考能力の無い人種なのだ、と小学4年生の時に確信しました。
理科の授業で蛙の解剖をし、心臓は意識しなくても鼓動することから、多くの神経活動を意識することはできないことを実感しました。小学4年生にもなると、寝ている間の神経活動は、その一部が「夢」という形で、しかも歪められたものしか知ることができないと解っています。そんな時に、「吾思う故に、我あり在り」という言葉と出会ったのです。西洋人は論理思考能力が欠如した無知蒙昧な下等動物である、と思うのは当然でしょう。
生禿が小学4年生の頃の西洋人に対する理解を、61際に今になっても変更する必要はないと考えています。しかし、この理解には、ある理解を付け加える必要があります。
その追加情報は、29歳の時に与えられます。生禿は、パリで10日間ほど暮したことがあります。パリ在住中のある朝、「リュクサンブール公園に行こう」と誘われます。ですが、乗り気のしなかった生禿は、日本風にテキトーに断ります。欧米で暮したことがある方ならお解りだと思いますが、「何となく」「気乗りがしない」などという言い訳は通用しません。「咳が出て熱がある。体調が悪いからこれから医者に行く。だから一緒に行けない」というような明快な理由が無いと許しては貰えません。説明に窮した生禿は、結局リュクサンブール公園にとぼとぼとついて行くことになりました。
もう一つ例を挙げましょう。或る時、元貴族の御婦人にレストランの食事に招待されました。その時、彼女はテーブルにフォークを伏せて置きました。勿論、すぐさまギャルソンが飛んできます。「なぜ?フォークを伏せたのでしょうか」ギャルソンは尋ねます。彼女は、毅然とした態度で「私の目の前に居るのは、日本からのお客様です。日本は食卓に武器になるようなものを持ち込む人たちではありません。貴方も知っているように小笠原流などの優雅な作法を持つ人たちです。フォークの刃を上にすれば、その延長上に日本からきた大切なお客様の目があります。それは日本の方に対してとても失礼なことです」。そう応じます。すると、ギャルソンは畏まって、貴方の礼儀にレストランとしても誇りに思うと言って下がります。
西洋のマナーは、行為の主体として「説明すること」です。日本の作法のように「形式を守る」ことではありません。だから、西洋人は、何をするにしても「説明できる」ようにしなければなりません。ですから、常に「何故?」と自問し続けるのです。こういう息苦しい生き方が、突き詰めて、粘り強く究明する態度を醸成します。少なくとも、上流階級の人々はそうです(ヨーロッパには歴然と階級制度が残っています)。
西洋人にとって「説明責任」とは、命懸けなのです。彼等にとって、『全ての物事は意識され説明されなければならない』のです。自分に意識できない自分は存在しない。彼等はそう信じて疑いません。自分の行為は、主体として自ら選んだものですから、他人に説明し、社会に対して責任を取るべきものなのです。
「全ては認識でき、説明できる」という信念は、それが完璧に事実無根の出鱈目であったとしても、「全てを説明する」という強い意志をもたらします。この突き詰め方が、多くの知見をもたらします。西洋人は、長い時間をかけて、辛抱強く、少しづつ積み重ねて解明していくこと得意としています。分るまで小さく分解して、部分の知見を少しづつ組み上げて試行錯誤で全体を理解する。東洋人にとっては、それは驚異の執念です。
コツコツ積み重ねるのは日本人の得意とするところというのは、完璧な誤解です。イメージとは違うかも知れませんが、日本人は(日本人は東洋人であるという前提での話ですが)、むしろ、全体をパッと理解する「閃き」型の基礎研究が得意で、部分を積み重ねるタイプの応用研究は苦手です。
事実は解らないという事実を否定するのが無知蒙昧な西洋人です。そして、分解(分類)して理屈をつけて分る(分ければ分る)、という分り方を始めます。完全無欠の出鱈目です。ところが偶然にもそれが、現実と対応する、辻褄が合うものが出てきます。そして、それは役に立ちます。そうして、道具を作り、食べ物を育て、家を建て、服を作ります。生活の快楽は増します。それは、素晴らしい科学の成果となります。
西洋人が無知蒙昧な下等動物だったからこそ、今日のように科学技術を発展させたのです。その基礎が東洋人の発明発見に基礎を置いていたとしても、その功績は高く評価すべきでしょう。突き詰めるというのは恐ろしいものですね。こうして、生禿は29歳の時に、パリで人間の科学の一つのあり方に気づいたのです。そうです、西洋人という論理思考能力の無い下等動物にしかできない科学があるということです。
そして、再認識したのです。東洋人のような上等動物の得意なことと、西洋人のような下等動物の得意なことは違う。決して、下等であることが、悪いとか劣っているとは一概に言えるものではありません。という訳で、それ以降は、下等だからと言って、西洋人を蔑視することを止めました。
それにしても、「無知の知」を説いたソクラテスは、一応は西洋人だったということになっています(異説もありますが、最近の遺伝子の解析結果では、古代のギリシャ人は、今のギリシャ人と同じ遺伝子の持ち主であったろうと推測されています)。西洋人のソクラテスが東洋の知恵に一端を知り得たのには理由があります。
古代の方が、文化の交流は活発であり、西洋とは違って論理性のある東洋哲学を学ぶ機会は多かった、と指摘する論者も少なくありません。北京には、政府要人として、ヨーロッパ人を含む野蛮人である胡人も沢山いました。ビザンティウム(現イスタンブール)も、多くの西洋人も東洋人が行き来する国際都市でした。現在の国際都市は、政治色が強すぎ、集まる人々に地域の偏りが大きすぎます。
古代ギリシャで、ソクラテスが、「人間には、事実そのものは認識できない」という、東洋人にとっては当たり前のことを指摘できたのも、東洋と西洋の交流が活発だったからでしょう。
全ては説明できるという、とてつもなく強い信念に基づいて、何とか説明しようとする。その努力は、時には一生を懸けても実らず、次の世代に受け継がれたりします。兎に角、何が何でも、出鱈目でもいいから、辻褄の合う説明を、変質狂のように探します。そして、偶然、都合良く辻褄が合いそうな屁理屈を見つけます。すると、その屁理屈を現実の世界で検証しようとします。これまた、変質者のような執念深さで。こうして、西洋の科学は進歩したのです。
例えば、先日、読んだ「腦と心の量子論」に書かれているのは、辻褄だけは合っている事実無根の屁理屈です。それを、科学の世界では「予想」と言います。いつかは、予想は検証されるか、否定されます。検証されるにしても否定されるにしても、その過程を積み重ねることが、西洋の科学の進歩なのです。
しかし、「ビックバン予想」がそうであるように、量子論の多くが、未検証の屁理屈のままです。西洋科学の行き詰まりは明らかです。
下等動物の西洋人の限界は見えてきました。では、上等動物である東洋人の可能性とは何でしょうか。判り易い、「地球温暖化」の例でお話しましょう。
皆さんは、温暖化効果が二酸化炭素の6倍、大気に占める構成比に至っては20倍、大雑把にいって、二酸化炭素の100倍以上の温暖化効果ガスの存在を御存知ですか?このガスは、二酸化炭素が2倍になったところで、それを簡単に打ち消す膨大な影響力を持ちます。これを何とかしなくてはいけません。これは、実際にアメリカの科学者が新聞で訴えたことです。
この地球を温暖化せさせるガスの名前は「水蒸気」です。アメリカの科学者の多くが、二酸化炭素の増大が事実だとしても、それによって地球が温暖化するという事実は科学としては認められない、という立場をとるのは当然です。というか、それ以外は無知、非科学の妄想に過ぎないのです。このような最低限の知見すら持たない脳の腐ったお馬鹿を「エコロジスト」とか、「環境保護団体」というテロ組織に属したテロリストと呼びます。これは科学の事実です。ですから、生禿はエコロジストを人間だと認めていません。腐った人間ではありません。人間ではないのです。
人間は、「言葉を考える」ことはあっても「言葉で考える」ことはあり得ません。脳神経の物理としてそんなことは不可能です。本当に考える論理は、言葉で言えば「リアルなイメージの思考」に近いでしょうか。人間が共同して作業をする時には、言葉は強力な道具になります。ですが、天然を相手に考えたり作用したりするときには、百害あって一利ないのが、上っ面の言葉です。文字通りの机上の空論に過ぎません。
さて、上等動物である東洋人は、この「地球温暖化」幻想にどう対処するのでしょうか。勿論、西洋人のように、地球大の問題について、自意識なんて論理性の欠如した屁理屈を当てにしたりしません。
皆さんは、ガラパゴス諸島のイグアナが、十年前程前、数年間のうちに突如として、水陸両用に突然変異(進化)したのをご存知ですか?自意識などという利己心だけを醸成する薄汚いものに依存するから、シーシェパードのようなゴロツキが世に蔓延るのです。そうではなく、ガラパゴスのイグアナさん達は、「獣の決断」に従って自らを水陸両用に変化させたのです(これも、ガラパゴスという「辺境」な環境が有利に作用したと想像しています)。
丁度、同じ頃、日本で起こったことがあります。オタクな引き籠り男子の急増です。引き籠って女の子とセックスをする機会が減っただけではありません。彼らの精液は薄くなり、さらに子孫を残す可能性を減少させています。この、動かない、産まない、という「人類の突然変異」は、自意識などという下等なものによって生起したものではありません。上等な「獣としての」天然に呼応した知恵です(XY染色体を持つ男性は突然変異しやすく、一人で沢山の女性と性交して多くの子孫を残せるので、有利な突然変異を保存する「仕組」として有利です。これはガラパゴスのイグアナさんでも亀さんでも同様です。そうです、亀頭が世界を変えるのです!)。
東洋人は、この「天然と同期した獣の知恵」を「感じる」ことができるのです。それは、意識ではありません(断食座禅などの技術訓練によって、体感として知覚することは可能ですが、それでも、獣の知恵の内容まではたどり着くことはできません)。この「獣の英知」に「素直に従う」知恵を持つのが東洋人です(それは、「なんとなく」としか説明できませんので、下等動物である西洋人には理解不能です)。
日本が「オタク文化の発信地」であるのは当然です。それは、東洋の中で、日本は、1)文化の発信力が高い、2)「獣の英知」を保持する縄文人の遺伝子と文化を色濃く残している、からだと推測しています(2)については、将来『辺境文化論』としてまとめたいと思っています)。
東洋人は「獣の英知」を保持しています。だから、これからの世界は、上等動物である東洋人が、下等動物の西洋人を指導していかなければならない、のではありません。縄文人の末裔である生禿としては、上等動物である東洋人が主役になることを、感情としては喜ばしいことだと思うのですが、それでは人類は幸せにはなれません。
まず、基礎研究に弱くても、その論理が出鱈目あろうと、西洋人の応用技術は、地球の環境変化(勿論それは温暖化とは限りません)などに対しても有効です。気の毒なことに、自意識などという論理の欠如したものに支配された哀れな存在ではありますが、西洋人の工学などの応用技術力は必要不可欠です。次に、中国などを含め、地球上の大部分の人類は下等動物である西洋人です。人口比で言えば、上等動物である東洋人はとても少ないのです。友愛の東洋人は平和主義者です。残虐非道な西洋人に虐殺され、その人口は激減しているのです(それは、日本国内でも同様です)。
また、最近の西洋人が東洋の論理や思考を学ぼうとしていますが、これは全く無駄なことです。例えば、生禿は絶対音感を持ちません。その生禿が血を吐くような辛く厳しい訓練をどれだけ重ねても、1ヘルツの狂いも無い音を奏でることは不可能です。そんな努力は完全無欠に無駄ですよね。西洋人は東洋人の英知には及びません。努力するだけ無駄だからお止めなさい。
ですから、東洋人の英知と西洋人の技術を組み合わせる、そうです「和魂洋才」(古くは「和魂漢才」)なのです。日本が、東洋と西洋の結節点となり、その知恵と技術を融合し統合する『大東亜共栄圏』を世界水準で建設することが、人間の世界を救う唯一とは言いませんが、近道だと言えるのではないでしょうか。
生禿は、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の「中道」は、西洋と東洋の知恵の融合も含まれていると解釈しています。そう思うのは、釈尊の本来の教えが西洋(ギリシャ哲学)に出会ってより鮮明になり、かつ、両者が否定し合うものではないことを示した「ミリンダ王の問い」に最もよく表現されているからでもあります。
安倍晋造という非人は西洋人。日本を滅ぼし、東洋の知恵を否定することだけを使命としています。こんな物は、破壊しなければなりませんね。「日本を日本人の手に取り戻す」ことから始めなければならないのか?それは生禿にも、まだ結論は出ていません。
その結論を導くのが『辺境文化論』だと考えています。辺境であるが故に、全てが行き所を失って、「し方なく」融合し、結果として望むべくもない「高み」に達する。それを、人間が意図して目指し実現することは可能なのか?可能だとしたら、それはどのようにしたら実現されるのか?残りの命を使って、それを思考したいと思います。← 上記のようなチャラけた文章を書いているので笑われるかも知れませんが、本人は案外マジなんですよ?(^^)?
とは言え、どうせ人類は滅亡します。誰が何と言おうとそれは絶対の真理でしょう。それを友愛の民、人類文明の基礎を築いた古代人の末裔として、その過程を静かに見守るのも、生禿の生きるべき命なのかも知れないのですが。
理科の授業で蛙の解剖をし、心臓は意識しなくても鼓動することから、多くの神経活動を意識することはできないことを実感しました。小学4年生にもなると、寝ている間の神経活動は、その一部が「夢」という形で、しかも歪められたものしか知ることができないと解っています。そんな時に、「吾思う故に、我あり在り」という言葉と出会ったのです。西洋人は論理思考能力が欠如した無知蒙昧な下等動物である、と思うのは当然でしょう。
生禿が小学4年生の頃の西洋人に対する理解を、61際に今になっても変更する必要はないと考えています。しかし、この理解には、ある理解を付け加える必要があります。
その追加情報は、29歳の時に与えられます。生禿は、パリで10日間ほど暮したことがあります。パリ在住中のある朝、「リュクサンブール公園に行こう」と誘われます。ですが、乗り気のしなかった生禿は、日本風にテキトーに断ります。欧米で暮したことがある方ならお解りだと思いますが、「何となく」「気乗りがしない」などという言い訳は通用しません。「咳が出て熱がある。体調が悪いからこれから医者に行く。だから一緒に行けない」というような明快な理由が無いと許しては貰えません。説明に窮した生禿は、結局リュクサンブール公園にとぼとぼとついて行くことになりました。
もう一つ例を挙げましょう。或る時、元貴族の御婦人にレストランの食事に招待されました。その時、彼女はテーブルにフォークを伏せて置きました。勿論、すぐさまギャルソンが飛んできます。「なぜ?フォークを伏せたのでしょうか」ギャルソンは尋ねます。彼女は、毅然とした態度で「私の目の前に居るのは、日本からのお客様です。日本は食卓に武器になるようなものを持ち込む人たちではありません。貴方も知っているように小笠原流などの優雅な作法を持つ人たちです。フォークの刃を上にすれば、その延長上に日本からきた大切なお客様の目があります。それは日本の方に対してとても失礼なことです」。そう応じます。すると、ギャルソンは畏まって、貴方の礼儀にレストランとしても誇りに思うと言って下がります。
西洋のマナーは、行為の主体として「説明すること」です。日本の作法のように「形式を守る」ことではありません。だから、西洋人は、何をするにしても「説明できる」ようにしなければなりません。ですから、常に「何故?」と自問し続けるのです。こういう息苦しい生き方が、突き詰めて、粘り強く究明する態度を醸成します。少なくとも、上流階級の人々はそうです(ヨーロッパには歴然と階級制度が残っています)。
西洋人にとって「説明責任」とは、命懸けなのです。彼等にとって、『全ての物事は意識され説明されなければならない』のです。自分に意識できない自分は存在しない。彼等はそう信じて疑いません。自分の行為は、主体として自ら選んだものですから、他人に説明し、社会に対して責任を取るべきものなのです。
「全ては認識でき、説明できる」という信念は、それが完璧に事実無根の出鱈目であったとしても、「全てを説明する」という強い意志をもたらします。この突き詰め方が、多くの知見をもたらします。西洋人は、長い時間をかけて、辛抱強く、少しづつ積み重ねて解明していくこと得意としています。分るまで小さく分解して、部分の知見を少しづつ組み上げて試行錯誤で全体を理解する。東洋人にとっては、それは驚異の執念です。
コツコツ積み重ねるのは日本人の得意とするところというのは、完璧な誤解です。イメージとは違うかも知れませんが、日本人は(日本人は東洋人であるという前提での話ですが)、むしろ、全体をパッと理解する「閃き」型の基礎研究が得意で、部分を積み重ねるタイプの応用研究は苦手です。
事実は解らないという事実を否定するのが無知蒙昧な西洋人です。そして、分解(分類)して理屈をつけて分る(分ければ分る)、という分り方を始めます。完全無欠の出鱈目です。ところが偶然にもそれが、現実と対応する、辻褄が合うものが出てきます。そして、それは役に立ちます。そうして、道具を作り、食べ物を育て、家を建て、服を作ります。生活の快楽は増します。それは、素晴らしい科学の成果となります。
西洋人が無知蒙昧な下等動物だったからこそ、今日のように科学技術を発展させたのです。その基礎が東洋人の発明発見に基礎を置いていたとしても、その功績は高く評価すべきでしょう。突き詰めるというのは恐ろしいものですね。こうして、生禿は29歳の時に、パリで人間の科学の一つのあり方に気づいたのです。そうです、西洋人という論理思考能力の無い下等動物にしかできない科学があるということです。
そして、再認識したのです。東洋人のような上等動物の得意なことと、西洋人のような下等動物の得意なことは違う。決して、下等であることが、悪いとか劣っているとは一概に言えるものではありません。という訳で、それ以降は、下等だからと言って、西洋人を蔑視することを止めました。
それにしても、「無知の知」を説いたソクラテスは、一応は西洋人だったということになっています(異説もありますが、最近の遺伝子の解析結果では、古代のギリシャ人は、今のギリシャ人と同じ遺伝子の持ち主であったろうと推測されています)。西洋人のソクラテスが東洋の知恵に一端を知り得たのには理由があります。
古代の方が、文化の交流は活発であり、西洋とは違って論理性のある東洋哲学を学ぶ機会は多かった、と指摘する論者も少なくありません。北京には、政府要人として、ヨーロッパ人を含む野蛮人である胡人も沢山いました。ビザンティウム(現イスタンブール)も、多くの西洋人も東洋人が行き来する国際都市でした。現在の国際都市は、政治色が強すぎ、集まる人々に地域の偏りが大きすぎます。
古代ギリシャで、ソクラテスが、「人間には、事実そのものは認識できない」という、東洋人にとっては当たり前のことを指摘できたのも、東洋と西洋の交流が活発だったからでしょう。
全ては説明できるという、とてつもなく強い信念に基づいて、何とか説明しようとする。その努力は、時には一生を懸けても実らず、次の世代に受け継がれたりします。兎に角、何が何でも、出鱈目でもいいから、辻褄の合う説明を、変質狂のように探します。そして、偶然、都合良く辻褄が合いそうな屁理屈を見つけます。すると、その屁理屈を現実の世界で検証しようとします。これまた、変質者のような執念深さで。こうして、西洋の科学は進歩したのです。
例えば、先日、読んだ「腦と心の量子論」に書かれているのは、辻褄だけは合っている事実無根の屁理屈です。それを、科学の世界では「予想」と言います。いつかは、予想は検証されるか、否定されます。検証されるにしても否定されるにしても、その過程を積み重ねることが、西洋の科学の進歩なのです。
しかし、「ビックバン予想」がそうであるように、量子論の多くが、未検証の屁理屈のままです。西洋科学の行き詰まりは明らかです。
下等動物の西洋人の限界は見えてきました。では、上等動物である東洋人の可能性とは何でしょうか。判り易い、「地球温暖化」の例でお話しましょう。
皆さんは、温暖化効果が二酸化炭素の6倍、大気に占める構成比に至っては20倍、大雑把にいって、二酸化炭素の100倍以上の温暖化効果ガスの存在を御存知ですか?このガスは、二酸化炭素が2倍になったところで、それを簡単に打ち消す膨大な影響力を持ちます。これを何とかしなくてはいけません。これは、実際にアメリカの科学者が新聞で訴えたことです。
この地球を温暖化せさせるガスの名前は「水蒸気」です。アメリカの科学者の多くが、二酸化炭素の増大が事実だとしても、それによって地球が温暖化するという事実は科学としては認められない、という立場をとるのは当然です。というか、それ以外は無知、非科学の妄想に過ぎないのです。このような最低限の知見すら持たない脳の腐ったお馬鹿を「エコロジスト」とか、「環境保護団体」というテロ組織に属したテロリストと呼びます。これは科学の事実です。ですから、生禿はエコロジストを人間だと認めていません。腐った人間ではありません。人間ではないのです。
人間は、「言葉を考える」ことはあっても「言葉で考える」ことはあり得ません。脳神経の物理としてそんなことは不可能です。本当に考える論理は、言葉で言えば「リアルなイメージの思考」に近いでしょうか。人間が共同して作業をする時には、言葉は強力な道具になります。ですが、天然を相手に考えたり作用したりするときには、百害あって一利ないのが、上っ面の言葉です。文字通りの机上の空論に過ぎません。
さて、上等動物である東洋人は、この「地球温暖化」幻想にどう対処するのでしょうか。勿論、西洋人のように、地球大の問題について、自意識なんて論理性の欠如した屁理屈を当てにしたりしません。
皆さんは、ガラパゴス諸島のイグアナが、十年前程前、数年間のうちに突如として、水陸両用に突然変異(進化)したのをご存知ですか?自意識などという利己心だけを醸成する薄汚いものに依存するから、シーシェパードのようなゴロツキが世に蔓延るのです。そうではなく、ガラパゴスのイグアナさん達は、「獣の決断」に従って自らを水陸両用に変化させたのです(これも、ガラパゴスという「辺境」な環境が有利に作用したと想像しています)。
丁度、同じ頃、日本で起こったことがあります。オタクな引き籠り男子の急増です。引き籠って女の子とセックスをする機会が減っただけではありません。彼らの精液は薄くなり、さらに子孫を残す可能性を減少させています。この、動かない、産まない、という「人類の突然変異」は、自意識などという下等なものによって生起したものではありません。上等な「獣としての」天然に呼応した知恵です(XY染色体を持つ男性は突然変異しやすく、一人で沢山の女性と性交して多くの子孫を残せるので、有利な突然変異を保存する「仕組」として有利です。これはガラパゴスのイグアナさんでも亀さんでも同様です。そうです、亀頭が世界を変えるのです!)。
東洋人は、この「天然と同期した獣の知恵」を「感じる」ことができるのです。それは、意識ではありません(断食座禅などの技術訓練によって、体感として知覚することは可能ですが、それでも、獣の知恵の内容まではたどり着くことはできません)。この「獣の英知」に「素直に従う」知恵を持つのが東洋人です(それは、「なんとなく」としか説明できませんので、下等動物である西洋人には理解不能です)。
日本が「オタク文化の発信地」であるのは当然です。それは、東洋の中で、日本は、1)文化の発信力が高い、2)「獣の英知」を保持する縄文人の遺伝子と文化を色濃く残している、からだと推測しています(2)については、将来『辺境文化論』としてまとめたいと思っています)。
東洋人は「獣の英知」を保持しています。だから、これからの世界は、上等動物である東洋人が、下等動物の西洋人を指導していかなければならない、のではありません。縄文人の末裔である生禿としては、上等動物である東洋人が主役になることを、感情としては喜ばしいことだと思うのですが、それでは人類は幸せにはなれません。
まず、基礎研究に弱くても、その論理が出鱈目あろうと、西洋人の応用技術は、地球の環境変化(勿論それは温暖化とは限りません)などに対しても有効です。気の毒なことに、自意識などという論理の欠如したものに支配された哀れな存在ではありますが、西洋人の工学などの応用技術力は必要不可欠です。次に、中国などを含め、地球上の大部分の人類は下等動物である西洋人です。人口比で言えば、上等動物である東洋人はとても少ないのです。友愛の東洋人は平和主義者です。残虐非道な西洋人に虐殺され、その人口は激減しているのです(それは、日本国内でも同様です)。
また、最近の西洋人が東洋の論理や思考を学ぼうとしていますが、これは全く無駄なことです。例えば、生禿は絶対音感を持ちません。その生禿が血を吐くような辛く厳しい訓練をどれだけ重ねても、1ヘルツの狂いも無い音を奏でることは不可能です。そんな努力は完全無欠に無駄ですよね。西洋人は東洋人の英知には及びません。努力するだけ無駄だからお止めなさい。
ですから、東洋人の英知と西洋人の技術を組み合わせる、そうです「和魂洋才」(古くは「和魂漢才」)なのです。日本が、東洋と西洋の結節点となり、その知恵と技術を融合し統合する『大東亜共栄圏』を世界水準で建設することが、人間の世界を救う唯一とは言いませんが、近道だと言えるのではないでしょうか。
生禿は、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の「中道」は、西洋と東洋の知恵の融合も含まれていると解釈しています。そう思うのは、釈尊の本来の教えが西洋(ギリシャ哲学)に出会ってより鮮明になり、かつ、両者が否定し合うものではないことを示した「ミリンダ王の問い」に最もよく表現されているからでもあります。
安倍晋造という非人は西洋人。日本を滅ぼし、東洋の知恵を否定することだけを使命としています。こんな物は、破壊しなければなりませんね。「日本を日本人の手に取り戻す」ことから始めなければならないのか?それは生禿にも、まだ結論は出ていません。
その結論を導くのが『辺境文化論』だと考えています。辺境であるが故に、全てが行き所を失って、「し方なく」融合し、結果として望むべくもない「高み」に達する。それを、人間が意図して目指し実現することは可能なのか?可能だとしたら、それはどのようにしたら実現されるのか?残りの命を使って、それを思考したいと思います。← 上記のようなチャラけた文章を書いているので笑われるかも知れませんが、本人は案外マジなんですよ?(^^)?
とは言え、どうせ人類は滅亡します。誰が何と言おうとそれは絶対の真理でしょう。それを友愛の民、人類文明の基礎を築いた古代人の末裔として、その過程を静かに見守るのも、生禿の生きるべき命なのかも知れないのですが。