「森田療法」 岩井寛 1986年 講談社現代新書

 森田療法!懐かしい〜〜〜。大学生の頃、精神病院でボランティアをしていて学んだ、当時は新しい療法でした。森田先生の論文を読み、講演も聞きに行きました。この本は40刷以上の版を重ねています。きっと名著なのだろうと思ったら … 残念でした。

 著者が死の直前目も見えなくなって口述筆記した。そんなエピソードの「劇的なるもの」が大衆受けした部分もあるでしょう。時間のない口述筆記だから、とっちらかっているしくどい。体系的でなく感情的な記述も目につきます。冷徹な科学者として森田療法の研究所を期待した私は裏切られました。自分の死を「餌」にして「言い訳」にして、こういう本を書く根性が気に入りません。

 なのですが、後半の森田療法を「人生訓」として活用する部分は、一般向けに説得力のある語り口になっています。これが、この本を買わせたのでしょう。そうですよね。新書なんだから、学術書である筈もない。「森田療法」に特別な思い入れを持つ人間の勝手な思い込みは迷惑ですよね〜。とにかく、人間の精神疾患と向き合った学生時代の思いを蘇らせてくれる本でした。古臭い考え方や用語も、懐かしいものでした。

 人間の苦悩は「自意識」があることに起因します。自意識がなければ、死の恐怖も劣等感も権力欲もありません。何故?人間は自意識を強く持つのだろう?生物進化上で、私が最も疑問とするところです。精神疾患は、自意識が一定水準以上の生物の必然です。多細胞生物に個体の死があるように。進化は必ずしも「良くなる」ことではありません。エネルギー効率は高くなりますが、その効果が好いものであるかどうかとは無関係です。私は「生きる意味」なんて下らないものを否定して生きています。そういう汚辱にまみれた考え方をしているから、惨たらしい命を生きていかなければならないからです。

 以下はこの本の要約と引用です。


《はじめに 森田療法とは何か》

 東洋の思想を基盤とする森田学説と、西洋の精神分析の学説が融和する筈はなかった。西洋では、病因を分析し、それを異物として除去しようとする。森田療法では、神経症者と日常者(≒健常者)は連続しており、共通の心理機構が存在するとする。不安や葛藤の心理機構は、それ自体は異常ではない。

 神経症者は「かくあるべし」という姿に「囚われ」、現実の苦痛に耐えられなくなり逃避する。不安や葛藤を「あるがまま」に受け入れ、自己実現欲求に従って行動しようと努める(目的本位)。当否欲求をあるがままにして、自己実現を止揚して、目的≒「生きる意味」に向かう行動を促すのである。

《1. 森田療法の基礎理論》

 学校に入ると、束縛と競争と自制が強いられる。教師と生徒の縦の人間-社会関係が生じる。劣等感(自己否定)が生じる。劣等感は神経症の基盤となる。[自己肯定 → 自己同一性〜社会化]=[自我の確立]が必要である。

 誰からも理解されることは無い。現実に存在しないものを求めるほど、心は虚しくなる。

《2. 神経症者のメカニズム》

 神経症者は「かくあるべし」という考えが強い。それによって苦しんでいる。対照的なのがヒステリー者。ヒステリー者は内省しない。人に甘え依存し、自分の勝手な欲望を通そうとする。外見は明るいが、つきあっていると身勝手でうんざりする。

 「○○したらどうしよう」という「予期不安」に囚われる。気にすまいとすればするほど、そこに注意が集中してしまう(固着)。神経症者は、囚われから逃れられなくなってしまい(強迫観念)、日常生活に支障をきたす。囚われた者は、自分の都合の良いように合理化した行動をとる。神経症者は、自分の考えがおかしいと知っているが、そこから脱することができない。分裂病(統合失調症)者は、自分の観念が歪んでいるのに気づかない(妄想)。

《3. 神経症者の諸症状》

 神経質な人は、現実から逃避する傾向がある。神経症者は、相反する物事を包含しながら生きているという事実を受け入れる心の余裕が無い。神経症者の治療は、症状を取り除く西洋の療法とは異なり、それを人間性そのものとして受け入れることである。

 対人恐怖症は、自意識過剰で、自分の主張を語るだけ。自己中心的で、他人の言うことを聞かない。

 不安神経症に重要な治療法が「不安突入」。不安な状況に「突入」し、予期不安が仮想であることを自ら確かめる。

 耳鳴りなどの身体症状については、症状を「あるがまま」にして、目的に熱心に取り組むことで軽快する。

 アパシーやモラトリアムは、自己内省が弱く、それを外在化することも少ない。これにともない、神経症は減少し「境界領域」と言われる症状が増えた。

《4. 神経症の治し方》

 自分自身をよく知ること。成長過程を振り返り、「とらわれ」を見つめ、、自分の欲望を覗き込む。静かな環境で内省する。作業療法や生活訓練では、不安をあるがままにして、日常の行動を進める。行動の習慣化は、態度形成を目標とする。

 内界の深層を「不問」とする(深層心理をあえて外化しない)森田療法は、日記に葛藤をくどくど書かせない。但し、外来では、日記に自由に書く事を許容している。

 説得では患者を変えることはできない。思索と行動を通じて変わるのは患者自身である。治療者は、それをじっと待つのである。不安をあるがままにして、ぶつかっていく。患者自身が行動を通して葛藤を打破するのを援助する。

 神経質(症)者は、観念的な人が多い。物事を考え尽くしてからでないと、行動に踏み切らない。石橋を叩いても渡らない。不安を伴わない確実な現実など無い。現実世界の不条理を受け入れて行動しなければならない。暗い夜道は怖い。その自然な感情抱きながら(あるがままに)人は道を歩く。本来の目的を目指して一歩を踏み出す(目的本位)。

 神経症は人間の弱さから発している。不安に耐えられない脆弱さに起因している。目的本位の行動をとることで、不安を超え、苦痛に囚われない「自己陶冶」に至る。自己が確立すると、他人を配慮し、社会に対する目が開かれる。苦悩と葛藤を通して、人間を深め、視野を広げ、真の自由を目指す。

《5. 日常に活かす森田療法》

 自然と私、神と私、他者と私、あらゆる現象が対峙するものとして捉える西洋。東洋、特に、日本のようなモンスーン地帯の文化では、自然の中に包まれて人間は生きてきた。自然の恩恵を受け、現象をそのまま受け止める。現象と対峙する西洋と、受け入れる東洋。

 釈尊の教えとされる四諦。老いに抗えず、死に抗えず、病むに抗えず、苦しみに抗えない。生老病死をそのまま受け止める。その上で、本来の命を、自己を実現していく。

 西洋の「在る」は、人間中心の自己意識のできた存在。自我を確立し得た自己としての「在る」。西洋の現象対峙の「在る」と、東洋の現象受容の「ある」では内容が異なる。

《おわりに 生と死をみつめて》

 自分の弱さを認めると、他人を怒る気にはなれない。人間の弱さを認めたときに、「許し」が生まれる。但し、公憤は大いに怒らなければならない。

 「こうでなければならない」に囚われることなく、目的に向かって、生きる意味を求めて、おおらかに行動する。