「自由の条件」 フリードリヒ・ハイエク 2021年 春秋社

 学生時代に読んだハイエクの「法・立法・自由」には、影響を受けました。国家による貨幣発行の独占に反対する徹底した自由主義に傾倒しましたネ!ビットコインを熱烈応援したかったけれど、お金が無くて買えなかった (*_*; 懐かしい!色々なことを思い出しました。最大限の自由を保障する一方で、最低限の生活を保証する「ベーシックインカム」と「最低賃金」の導入を目指すべきだという考え方にもつながりました。この本は、ハイエクの自由主義の原点と言える本です。じっくり読まさせて頂きました。なお、この本の原典は1960年に発行されています。 以下は、この本の要約と引用です。


■ まえがき

 本書の目的は、一つの理想を描くこと。

■ 序言

 いかなる人間も社会の運行を司る知識の全てを理解することはできない。従って、人為の判断に依存しない機構が必要である。

 本書の企画は、世界が自由の信念を脅かしているという認識に負っている。完全主義は、良識を破壊するものである。

■ 個別自由

 「自由という言葉の適切な定義は、いまだ世界のどこでもなされていない」アブラハム・リンカーン。

 「ある人が他人の強制に服していない状態」を自由という。自由とは、自分自身の決定と計画に従って行動する可能性を意味する。「他人の恣意からの独立」である。

 自由とは、人と人との関係にのみ関わるものであり、自由に対すする侵害は人々による強制だけである。人がある時点で選択し得る物理可能性の幅は、自由とは直接関係がない。

 自由かどうかは、選択の範囲によるのでがなく、現在の意図に従ってその行動を形成することを自ら期待できるかどうかに依存している。

 ある人が理知的に選択できるかどうかとは別の問題である。

 自由と富は異なるものである。自由は、選択の幅。広さとは別の問題である。

 我々は自由であっても、不幸である得ることを認めなければならない。

 権力の意味での自由、政治的自由、内面的自由は、個人的自由と同じではない。

 自由と平和は、消極概念であり、しばしば反対を受ける。自由は、特定の機会を保証するものではない。

 古代ギリシャでの奴隷の解放。与えられたのは、共同社会の一員としての法的地位、恣意的逮捕からの免除、本人の希望に従って働く権利、自分の選択に従って移動する権利、の4つ。奴隷も財産を持つことができ、所有する権利は既に与えられていた。

■ 自由文明の想像力

 人間がその文明を恣意的に創造できるという考え方は、人間の理性が自然の外にあるもので、経験とは独立した知識と推理能力をもつとみなす誤った主知主義からきている。近代科学は「無知の範囲が、科学の前進とともに増大する」ことに気づいていた。

 道具と制度は相続く世代の経験の結果である。広い意味での行動の道具と形態の中に、経験が具体化されることを通して、知識が伝えられ、系統だった規則が成長する。

 全知全能の人間がいたら、自由擁護の理由は殆ど無いであろう。自由のあらゆる制度が、無知への適応、すなわち偶然を扱うのに適応している。我々は、人間の事柄について確実性を手にすることはできない。それ故に、有効であると明らかになった規則に従わなければならない。習慣と制度は、たえず改良されている。

 有益な結果が生じると前もってわかっている場合だけに自由を許すのは自由ではない。誰かが何でも試みうることが重要である。

 人間は自分たちが知っている事柄だけに関心を持っている。善や美も変化する。

 選択の過程の基礎にある「競争」は広い意味に理解しなければならない。

■ 進歩の常識

 「人はどこへ向かっているかを知らないときほど、高いところへ登るものである」オリヴァー・クロムウェル。

 文明が望ましい方向へ動いているという主張を認める根拠は無いし、全ての変化を必然とみなす理由は無い。進化は必ずしも良い事態を導かない。

 人間は狩猟者として50万年以上過ごし、僅かの間にこのような生活様式を取り入れたのであって、それが生み出した問題は未解決である。

 人間の理性は自らの未来を予想することも意図的に形作ることもできない。科学においても、その仕事の結果がどうなるかを予想できない。

 経済の前進は、不平等の結果であり、不平等無しには不可能である。初めは利益を受けるのは少数者で、その後に大衆にとって必要なものとなる。試行され、後に発展するもの、全ての人々に利用可能になる経験の蓄積は、現時点の利益の不平等な分配によって拡大する。良いものが全員に提供されるまで全員が待たなければならないならば、その日はやってこないだろう。

 貧困は相対概念になっている。ある人や国が先頭に立てば、全ての人や国は後を追うことができる。

 農民が産業の侵入に関して不平を言い、放牧民も牧場の囲いに不平を言った。先頭に立つものの進歩を妨げることが、全ての進歩を妨げることになる。

 自由な世界は、未来に対する計画を示すことはできない。

■ 自由と理性およ伝統

 イギリスの自由は、経験的で非体系。伝統と制度の解釈(習慣法)を基礎としている。フランスは、思弁的で合理主義である。ユートピアの建設を目指した(啓蒙主義)。人間の理性のうぬぼれた合理主義は、もっともらしい外見を持つ。

 イギリスは自発性と強制の無いことに自由の本質を見出し、試行錯誤の手続きを支持する。フランスは唯一妥当な強制を支持する「民主全体主義」。公権力の介入の中に最高の政治文明を求める。

 人間の理性が制度を発明するというデカルト。設計学説は、利口な人が集まって世界を新しくするという考え方である。デカルトやルソーにとって、理想となったのはスパルタであった。

 長い経験が法律の便-不便の発見を可能にする。制度の存在理由が明確である必要は無い。制度は、自ら何をしているか知らなかった人々の個々の手探りの努力から生まれる。適応進化の結果としての秩序の出現。その概念はダーウィンに先んじていた。

 合理主義は、人は意識して文明を形成することができるとする。進化主義は、文明は試行錯誤の積み重ねの結果とする。それは経験の総和であり、世代から世代へ伝えられる制度である。

 自由の価値は、自由が提供する機会にある。自由な社会は、伝統に制約される社会である。しきたりに従うこと、自発協調は、自由の条件である。自由は道徳なしには作用しない。

 部分的に異なる規則に従うことが、有効な規則を選択するための機会を与える。「道徳の規則は我々の理性の結果では無い」デヴィッド・ヒューム。我々の行動の適切さは、その理解には必ずしも依存しない。合理主義は、そのような規則への服従に反対する。道徳が有益であることは保証されない。

 自由を削減する結果として、明白な利益を約束することができる。そして、犠牲にされた便益は解らない。

■ 責任と自由

 自由は個人が選択の機会と負担との両方を持つことを意味する。自由と責任とは不可分である。

 偶然に依存するみもかかわらず、行動の結果はその行動によって決定されると想定する。人生を決定するのは、自分たちの力の及ばない事情に外ならない。この責任の否定は、必然として自由を恐れる。

 人間の行動と心理は環境(身体を含む)によって決定される。これを認めることは、自由と責任、人格の排除してしまう。意思が自由であるか否かは、実体の無い「言葉上の問題」である。

 「意思の自由」の否定は、意味の無いことである。責任をある人に帰属させるのは、彼に違った行動を取らるためである。責任は法律の、道徳の概念である。

 自由と責任の補完関係は、自由は責任が引き受けることができる人にのみ適用できることを意味する。責任を帰属させるのは、強制に訴えずに秩序をもたらすために、社会が発展させた工夫である。自由の範囲が、責任の範囲である。

■ 平等、価値およびメリット(道徳価値)

 自由は平等とは関係が無い。「法の前の平等」は自由にとって必要なものである。

 人々に差異があり、別々の家庭で成長する限り、等しい出発点は保証できない。社会正義という外見を偽装する成功しなかった人々の羨望は、自由にとって脅威である。

 同一の結果には、同一の報酬が与えられる。努力とは無関係である。道徳と成功の間に関係は無い。

■ 多数決の原則

 自由主義は多数が受け入れたものが法となることを望ましいと考えるが、良い方法だとは信じない。民主主義と自由主義が一致するのは、強制規則が必要なときには多数決によってなされるべきだという点にある。決定されるべき問題の範囲には限界がある。

 民主主義は恣意権力の防止を意図するものであるのにもかかわらず、恣意権力を正当化する。民主主義は扇動に堕落する。

 民主主義は、暴力に依らず合意に達する手段である。目的に照らして、適用範囲を決定しなければならない。

 多数決の決定は、思慮深くは無い思考の結果であろう。多数者は自信の決定によって、望んでいなかった行動を強制される。

 人々は、複雑な社会秩序の相互依存関係を検討しない。政策のあらゆる結果を包括する描写が示された後においてのみ、民主主義は自身の望むものを決定することができる。

 自由主義は、民主主義に制限を課すことを望む。

 実際に権力を行使するのは行政官である。多数者ではない。

■ 雇用と独立

 既存の制度は我々の社会とは異なる社会で発展した。人々のほとんどが、自分の生計をたてる活動において独立していた社会であった。

 最近二百年の人口増加は、ほとんど都市の産業における被雇用労働者によって生じている。従属的で財産の無い人々が増加したときに、選挙権も与えられた。

 自由を行使することは、被雇用者にとってはほとんど直接の関心にはならない。彼らはそのような意思決定を行わずに生活できるし、そうしなければならない。

 自由はあらゆるものを欲しいがままに手に入れることを意味しない。

 被雇用者の利益が、資源利用を組織する責任を担う人々と異なってしまうのは避けがたい。独立人は、私生活と職業生活の区別をつけることはできない。どんな機会をとらえるべきか、どんな生活様式を採用すべきかにおいて、被雇用者と独立人とでは異なっている。人々は経済生活に関わる責任の一部から解放されている。

 被雇用者の多数が政策を決定する場合、独立人に好ましくないものとなる傾向がある。

 独立の財産家は、物的利得を生まないサービスにとって重要な存在となる。

 市場の限界は政府活動を正当とする議論を許すが、国家だけがサービスを提供することを正当化しない。そこに独占があってはならない。

 新たに富者となった者の粗野な楽しみは、富を相続した人々にとっては魅力ではない。所得を稼ぐために働かないことは、怠惰を意味しない。

■ 旧版解説

 ハイエクはこの書物で、衰退の兆候のあった自由主義の復興を目指した。1950年代は、戦争の傷跡を癒すのに忙しかった。福祉国家の思想や社会主義運動が有力であった。

 他人の強制を受けない状態に自由の意味がある。自由は人と人との間の関係についての状態であって、人と物との関係ではないし、人の内面の問題でもない。

 自由が尊重されるのは、人間知性が不完全だからである。

 法の前の平等は、人間を平等だと想定しているのではなく、不平等を前提とするからである。

■ 新版解説

 経済学者として出発したハイエクの研究は、総合化され社会哲学になった。

 人間が無知であること、理性に限界を認めた時、文明は発展する。「己の無知を認めることが叡智の始まりである」ソクラテス。「人はどこへ向かっているかを知らない時ほど、高いところに登る」O・クロムウェル。

 法の前の平等から機会の平等が導かれる。現代社会では機会の平等以上のことが要求されている。

 民主主義が自らを制約するものを失った時、民主主義そのものの破壊を導く。民主主義は政府権力に対して、多数意見という制限しか持たない。

 欧米社会で裕福な独立人が少なくなってきたことに、ハイエクは自由社会の衰退を見ている。