「フォン・ノイマンの哲学 − 人間のフリをした悪魔」
高橋昌一郎 2121年 講談社現代新書
天才の中の天才、「人間のフリをした悪魔」ジョン・フォン・ノイマンの伝記。人間離れした存在ですネ。以下はこの本の引用と要約です。
■ はじめに
ノイマンは、1903年ブタペストで生まれた。
ユージン・ウィグナー(1902年生)とノイマンは、人間の意識によって「量子論的状態」が収束するという量子解釈を提唱した。
マンハッタン計画でノイマンが中心となって推進したのが「爆縮型」原爆の設計である。
スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」のモデルはノイマンだと言われている。
■ 数学の天才
ノイマンの父マックス・ノイマンは、ドイツ系ユダヤ人。ハンガリー王国の首相カールマン・セールに高く評価された人物だった。皇帝から貴族に叙せられた。世襲の称号を与えられて「フォン・ノイマン」を名乗ることを許された。
ユダヤ人が欧州で姓を名乗ることが許されたのは16世紀。自由に姓を選べたわけではなく、ノイマン(新しい人)やフリードマン(自由な人)やゴールドマン(金のある人)のように、接頭辞「マン」につく姓は、ユダヤ出自を著している。
6歳のノイマンは、電話帳の電話番号の列の和を暗算で求めることができた。一度読んだ本を一語一句たがわずに引用する能力は、生涯にわたって続いた。
10歳のノイマンはギムナシオンのルーテル校に入学。彼を理解できる知性の持主であるウィグナーと出会った。ノイマンは神童と呼ばれるようになった。
彼は、周囲から浮き上がらないように、好かれるように努力していた。ノイマンの人あたりの良さは生涯続いた。
ブタペスト大学の若い数学者ガブリエル・セゲーが、ノイマンの特別講師を務めた。後にセゲーは、スタンフォード教授となり、数多くのユダヤ人科学者を救出した。やがて彼らがシリコン・バレーを形成していく。
1918年に第一次世界大戦の敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。1919年には、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した。父マックスは、家族全員を連れてウィーンに避難していた。
1921年、17歳のノイマンは、ベルリン大学応用科学科に入学すると同時に、ブタペスト大学大学院にも籍を置いた。
ノイマンと対照的なのが、放浪の天才数学者ポール・エルデシュ(1913年生)。世界各国の科学者がエルデシュを迎えて共同研究した。定職に就かず、住宅も預金も所有せず、妻子もいなかった。手に入った金は、ほとんど他人に配った。
■ ヒルベルト学派の旗手
アインシュタインは湯川秀樹と会った際に「科学者として日本に申し訳ないことをした」と、泣いて謝っている。
「彼は私を怯えさせた唯一の学生でした」ジョージ・ボリア。22歳のノイマンは、大学を卒業すると同時に、大学院博士課程を修了した。
1925年ノイマンの「集合論の公理化」は、ダフィット・ヒルベルトの目を惹いた。天才数学者ノイマンの名声は響き渡った。ヒルベルトの最後の著名な弟子となった。
ヒルベルトは「私講師の審査に、候補者の性別は関係しない。ここは大学であって、公衆浴場ではない」とエミー・ネーターを採用した。
ノイマンと同時期に物理学科の博士課程に転入してきたのが、ロバート・オッペンハイマーだった。
ヴェルナー・ハイゼンベルグの行列力学を理解できなかった64歳のヒルベルト。22歳のノイマンは、ハイゼンベルクの行列をヒルベルト空間のベクトルに置き換えて説明した。ノイマンは、新しい理論を創造する同世代の天才と出会った。
ノイマンは、波動方程式も行列方程式も、無限次元のヒルベルト空間におけるベクトルの幾何学で表現できることに気づいていた。そして「量子力学の数学的基礎」をまとめた。
1927年、23歳のノイマンは、ベルリン大学の私講師となった。数学基礎論、解析学、量子論など多岐にわたる論文を発表した。「戦略的ゲーム理論」を出発点として、数理経済学の「一般均衡理論」や「線形計画法」が本格的に始まった。
ノイマンは、量子力学であろうと数理経済学であろうと、新たな視点から数理モデルを定式化した。その開拓を終えると、すぐに興味を失ってしまう。
ノイマンが結婚を意識したのは幼馴染のマリエット・ケヴェシ。お抱え運転手つきの自家用車で社交界のパーティに出掛ける箱入り娘だった。
■ プリンストン高等研究所
1930年、数学の危機に対する数学基礎論をめぐる三学派を代表して、ウィーン大学のルドルフ・カルナップが論理主義、アムステル大学のアレン・ハイティンクが直観主義、ベルリン大学のノイマンが形式主義の立場から講演を行った。ウィーン大学の24歳のクルト・ゲーデルは述語論理の完全性定理について証明の概要を述べている。「内容的には真であるにもかかわらず、証明不可能な命題がある」。
ノイマンは「ヒルベルト・プログラムは達成不可能だ」と言った。その後、ノイマンは、この分野の第一人者の地位をゲーデルに譲り、二度と数学基礎論に関する論文を発表しなかった。
アインシュタインは、ポール・ディラックの「量子力学」を持ち歩いていた。
ユダヤ人商人ルイス・バンバーガーは、1933年、プリンストン高等研究所を設置した。プリンストン大学数学科からオズワルド・ヴェブレンとジェームズ・アレクサンダー。欧州からアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルを招聘した。
■ 私生活
1935年、ノイマンとマリエットの間にマリーナが誕生した。マリーナは、ピッツバーグ大学助教授から、ゼネラルモーターズ副社長となる。ニクソン政権の経済諮問委員も務めた。その後、ミシガン大学教授となっている。
ノイマン夫婦は週に頻繁にヨーロッパ風のサロン・パーティを開いた。
ノイマンは周囲の人々の感情に無関心だった。マリエットは、1937年、ホーナー・クーパーと再婚した。14歳のときにフギュア・スケートのナショナル・チャンピオンになった裕福な家庭の娘だったクララ・ダン。ノイマンは1938年にクララと結婚した。
第一次世界大戦に敗北し、世界恐慌化にあったドイツには大量の失業者が溢れていた。ヒトラーは徴兵制を制定して86万人の若者をドイツ国防軍に吸収し、軍需・自動車産業やアウトバーン建設に多額の公共投資を行って、完全雇用を実現した。
ヒトラーは、神聖ローマ帝国、帝政ドイツに続く第三帝国の建設を目指して、ドイツ国民を奮い立たせた。ナチス政権誕生後ドイツの景気は回復し、ドイツ国は熱狂した。
1935年「ニュルンベルク法」が公布された。ユダヤ人の公民権は剝奪された。
ゲッペルスは、ベルリン・オリンピックを総指揮した。オリンピアから聖火をリレーする演出はこのオリンピックから始まった。
感情を見せないノイマンは、ナチスに対しては強い憎悪を抱いていた。
ノイマン家のパーティは、欧州を脱出した研究者と、米国の大学や研究機関が出会う社交場となった。
ノイマンの公理系においては、何らかの物理量が観測されると、その物理量に対応するヒルベルト空間上の自己共益作用素の固有値が導かれ、系の状態はその固有値に対応する固有状態に収束する。観測から収束に至る経緯は、系の内部で数学的に厳密に定式化されている。
「観測」とはなんだろうか。エルヴィン・シュレーディンガーは、事項実験「シュレディンガーの猫」を提示した。観測とは何かを、閉じた系の外部にある何かの新たな概念で定義しなければならない。ノイマンとウィグナーは、「人間の意識が量子論的状態を収束させる」というノイマン・ウィグナー理論を提起した。当然ながら、「意識」とは何かという新たな疑問が生じる。ノイマンは、それ以上は、量子論の解釈論争に深入りしなかった。彼は徹底した「経験主義者」であり、観念論争を嫌っていた。
■ 第二次世界大戦と原子爆弾
リーゼ・マイトナーは、核分裂を発見した。
エンリコ・フェルミは、ノーベル賞の授賞式(アルフレッド・ノーベルの命日にあたる12月の10日に、ストックホルム・コンサートホールで開催される)へに出席を名目に、妻子を連れてイタリアを出国し、アメリカに亡命した。ノイマンはフェルミと意気投合し親友となった。
フェルミは、ウラン235に中性子を照射すると、原子核が分裂し、中性子も放出されることを確かめた。
天然ウランの99%は238。ウラン鉱から235を大量に抽出することは技術的にも経済的にも難しい。
シュレーディンガーは、アインシュタインが頼んでもプリンストン大学から採用されなかった。妻と愛人と一緒に暮らすと公言したことが理由だった。シュレーディンガーは奔放な私生活で知られ、婚外子を三人もうけている。
1939年、ニールス・ボーアとジョン・ホイーラーは「核分裂のメカニズム」を発表。この論文を入手したドイツ陸軍は、核分裂実験を最初に成功させたオットー・ハーンに分析を急がせた。ヴェルナー・ハイゼンベルクを中心に「原子爆弾開発計画」を推進する。この動きを察知して、レオ・シラードは、米国は原爆開発を急ぐべきだと主張した。シラードが下書きを作成したのが、ルーズベルト大統領に宛てた「アインシュタインの手紙」である。
1940年、英独の間で「史上最大の航空戦」が行われた。英国はドイツ軍の上陸作戦を瀬戸際で食い止めた。
ウィンストン・チャーチルは、モード委員会の全情報をルーズベルトに譲渡するように指示した。米国が短期間に原爆製造工場を建設できたのは、この情報のおかげである。
弾道学は、どのような形状の砲弾を用いて、どの量の発射薬で、仰角を何度に設定して発射するかにとって、砲弾がどのように飛翔し、どこに落下するかを推定する。一発の砲弾を発射するために、750回以上の微分計算が必要ちされた。ノイマンは、陸運を説得して、コンピュータの開発を急がせた。現在の戦闘機から発射されるミサイルのコンピュータ自動制御理論も、ノイマンが導いた原理に基づいている。
1941年、ノイマンは「国防委員会」の委員となった。
真珠湾攻撃のニュースを聞いたチャーチルは、これで米国が参戦してくれると喜んだ。英国は、ドイツ陸軍による本土上陸の瀬戸際まで追い詰められていた。
開戦後、プリンストン高等研究所は、米国の「国家非常事態管理局」に全面協力する。ノイマンは、陸軍・ホワイトハウス・戦争省に直結する3つの機関の重要メンバーとなった。
1941年、ノイマンは「オートメタ(自動機械)の一般的かつ論理的理論」を発表している。ノイマンは、コンピュータやロボット、そしてブラックホールに関する基礎研究を進めていた。
1942年、ノイマンは海軍からの要請で、ドイツ軍が英国沿岸に敷設した機雷除去方法の開発を依頼された。ノイマンの対処方法は、多くの連合軍の船舶を救った。
1942年、レズリー・グローヴス准将が原子爆弾プロジェクトの責任者に任命された。原爆開発が「マンハッタン計画」とよばれるのは、最初の総司令部がマンハッタンに設置されたためである。グローヴスは、ロバート・オッペンハイマーを抜擢した。研究所は、人里離れたロスアラモスが選ばれた。全米から数学者と物理学者が集められた。エドワード・テーラー、ハンス・ベーテ、リチャード・ファインマン。ノイマンだけは、ロスアラモスに定住せず、出入り自由という特別待遇で任命された。
マンハッタン計画は、オークリッジの精製工場でウランやプルトニウムを生成するプロジェクトXと、ロスアラモス研究所で原子爆弾を設計し製造するプロジェクトYで進められた。
ノイマンが中心となって推進したのが、「爆縮型」原爆の設計である。
ノイマンは、素人を相手にしたポーカーでも負けてばかりだったという。
ロスアラモスの科学者は、自分たちが大量殺戮兵器の製造をしていることに罪悪感を偉大いている者も少なくなかった。ノイマンは「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」とファインマンに忠告した。ファインマンは無責任感を持つようになり、幸福になった。
ノイマンの考え方は、科学で可能なことは突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな手段も許されるという「非人道主義」、この世界には普遍の責任や道徳など存在しないという「虚無主義」である。外面の柔和さとは裏腹に、内面は「人間のフリをした悪魔」だった。
ハイゼンベルクは、1940年に原子炉を開発した。米国に2年先んじていた。しかし、ハイゼンベルクは、ドイツの勝利を願う一方で、ナチスの独裁には不信感を抱いていた。
1943年、ノルウェーのレジスタンスが重水工場に潜入して重水タンクを爆破した(映画「テレマークの要塞」に描かれた)。原子炉の制御に不可欠な重水が供給されなくなり、ドイツの原爆開発は終わっていた。
1945年、ニューメキシコ州の砂漠で、人類史上最初の核実験が行われた。
日本は「本土決戦」を表明していた。通常の上陸作戦では、米軍に甚大な被害が予想された。
1945年、ドイツが降伏した。この時点で日本が勝つ可能性は消滅した。速やかに降伏の道を探るべきだった。大本営は「国体護持」や「講話を有利にする」ための抗戦だと位置づけた。8月6日にウラニウム型が広島に、9日プルトニウム型が長崎に投下された。二種類の原爆の威力を試したかったのである。
本土決戦に至らなかったには、昭和天皇が「無条件降伏」への強い意志を表明したためである。
もし日本が降伏しなければ、8月19日に東京に原爆が投下される予定があった。
日本軍の230万人の戦没兵士のうち120〜140万人が、栄養失調に起因する病死を含めた広義の餓死だった。戦没兵士の6割以上が、補給を考慮しない無謀な作戦によって殺害された。戦没者の大多数は、戦争末期に集中している。
■ コンピュータの父
アラン・チューリング(1911年生)は、23歳の1936年、「計算可能性とその決定問題への応用」を発表。計算あるいは思考する理想機械「チューリング・マシン」を想定した。アルゴリズムを表現する言語(構文論)、アルゴリズムを解釈する方法(意味論)、解釈したアルゴリズムを定まった手順で実行する方法(マシン化)を定式化した。
ノイマンはチューリングを高く評価して、彼の助手にならないかと誘ったが、チューリングは愛国者で米国嫌いだった。
チューリングは、マックス・ニューマンとともに暗号解読機関ブレッチリー・パークに赴任した。暗号機エニグマの解読は、ドイツを敗北に導いた最大の要因と言われる。チューリングは、大英帝国勲章を授与された。
エッカートとモークリーは、1万7840本の真空管、総重量28トンのENIACの試作品を開発した。ノイマンは、ENIACの計算速度を向上させた。
ノイマンは、コンピュータの論理構造を考えた。ハードウェアとソフトウェアを分離し、定式化した。この定式化によって「ノイマン型」コンピュータが誕生する。
チューリングが開発したのは、36機のエニグマの動作を同時にシミュレートする暗号解読機「ボンブ」。ボンブを改良して、全自動式暗号解読機を実現するためには、真空管のフィラメントが熱で切れる問題を解決する必要があった。
問題を解決したのは、トーマス・フラワーズ。フィラメントが切れるのは、電源を切り替える際にフィラメントに負荷がかかることが原因。電源を切り替えずに微弱電流を流し続けていれば、フィラメントの信頼性は高まる。
1943年、世界初の全電子式暗号解読機「コロッサス」が完成した。コロッサスは、現代のコンピュータで用いられている基本構造である制御回路・並列処理・割り込み・ループ・クロックパルスが組み込まれていた。ENIACより半年前だった。
ENIACの後継機EDVAC。現代コンピュータの基本となる[入力 → 中央処理装置 → 出力]ノイマン型アーキテクチャーを設計した。ノイマンは、プログラム内蔵方式の概念を最初に定式化した。
EDVAC特許に関する調停は、エッカートとモークリー、ノイマンとゴールドスタイン、大学と陸軍も「誰も特許を主張することができない」とした。この決定によって世界中の誰もが、ノイマン型アーキテクチャーを自由に使用できるようになった。
ノイマンには様々な誘いがあったが、コンピュータを開発できるならプリンストン高等研究所に残りたかった。
第二次大戦中の1944年、オスカー・モルゲンシュテルンと「ゲーム理論と経済行動」を発表。「私たちの専門領域に、少し顔を出しただけで、経済学を根本から変えてしまった」ポール・サミュエルソン。
ゲーデルには鬱病と人格異常があった。ゲーデルは、集合や概念など「数学的対象」が「人間の定義と構成から独立して存在する」と信じていた。ノイマンは、「あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは考えられない」と断言した。
ノーバート・ウィーナーは、1946年、ノイマンを招いてサイバネティックス会議を開催した。
■ フォン・ノイマン委員会
ノイマンは、最初からコンピュータに関する特許権を主張せず、全てを「学術研究」の一環として公開すべきだとした。
第二次大戦後、軍務から解放された優秀な頭脳が、研究開発に進んだ。シンクタンクと呼ばれる研究機関が次々と誕生した。
ノイマンには様々な職場で秘書のスカートの中を覗き込む「癖」があった。
第二次大戦が終結したばかりに1945年。バートランド・ラッセルは、潜在敵国ソ連に機先を制して戦争を仕掛ける「予防戦争」を主張した。ノイマンも、世界政府を樹立するために、ソ連に対して予防戦争を主著した。ノイマンは、マッド・サイエンティストとみなされるようになった。
ソ連はゼロから原爆を開発する必要はなく、情報を入手すればよかった。1950年、米国の原爆情報をソ連に流していたクラウス・フックスが逮捕された。ノイマンとフックスは、原爆に関する機密書類(発明開示書)をまとめていた。ノイマンの憎悪は、信じがたい裏切りの背後に存在するソ連に向けられた。
フックスは、9年の刑に服した後、1959年に東ドイツに引き渡された。彼は英雄として迎えられ、ドレスデン工科大学教授に就任し、中華人民共和国の留学生たちに原爆製造方法を教えた。
1943年、核融合爆弾を考案したのはエドワード・テラーだった。オッペンハイマーは、道徳的な理由から水爆開発に反対した。大統領命令を受けた科学者は、再びロスアラモスに終結した。ノイマンは、水爆開発を推進する立場だった。米国こそが世界で最大の武器を持つべきだからである。道徳的批判に対しても、「躊躇してはならない」と平然と述べている。
1952年、米国は水爆実験を成功させる。その翌年には、ソ連が水爆実験を成功させた。
力学的運動の長時間平均が、数学的な位相平均に等しいとき、つまり長時間平均が一定の確率的な平均に収束することを「エルゴード性」と呼ぶ。エルゴード性を計算できれば、閉じた空間の気体分子の運動から、地球全体の大気の予想まで応用できる。
ノイマンはエルゴード理論に関連する統計力学と流体力学の研究を推進した。ジュール・チャーニーとノイマンは、気象学の基礎方程式をMANIACにプログラムして、観測値を入力し、気象予報を行う方式を生み出した。これが現在の天気予報の基本方式である。
1950年、ノイマンは、核兵器の体系を評価する会議の委員となった。1953年、軍事関係の委員会が整理され「核兵器委員会(フォン・ノイマン委員会)」が設立され、ノイマンが委員長に指名された。
1955年、ノイマンに腫瘍が見つかった。何度か立ち会った核実験で浴びた放射線が原因だと言われている。彼の病室は、大統領の病室と同じ病棟にある特別室だった。ノイマンの周りを国防長官、国防副長官、陸・海・空軍長官、参謀長官が取り囲んだ。
1957年、ノイマンは拠去した。
1963年、「フォン・ノイマン著作集」が発行され、クララは落ち着くことができた。ノイマンと暮らす予定だったビーチで、クララの遺体が発見された。自らの生涯を閉じた。
ノイマンの娘マリーナは、ロバート・ホイットマンと結婚。その子マルコムは、ハーバード大学の発達生物学の教授、ローラはイエール大学医学部で内科の専門医を務めている。
■ おわりに
ノイマンは、表面は柔和で人当たりの良い天才科学者、内面は「人間のフリをした悪魔」だった。人間らしい姿を見せることはほとんど無かった。
天才ノイマンは、集合論と量子論に発展に貢献し、コンピュータとゲーム理論と天気予報を生み出した。
ノイマンは科学者の範疇に留まらない実践家だった。
1962年、キューバ危機が勃発した。ソ連崩壊後にロシアが公開した情報によると、ソ連は米国に先制核攻撃と上陸作戦を本気で計画していた。ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフのどちらかが攻撃命令を下せば、全面核戦争が勃発する局面だった(映画「13ディズ」に描かれた)。
オッペンハイマーは「我は死神なり、世界の破壊者なり」という言葉を引いて、その恐怖を表現した。
